受賞作品展示 作文部門
令和4年度(第59回)受賞作品

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全国都道府県教育長協議会会長賞

ひいおじいちゃんの従軍記

東京都 東京創価小学校 5年

青木 友美

 お母さんが夏休みに家の片付けをしていて、ひいおじいちゃんの従軍記を二冊見つけた。私はひいおじいちゃんが二度も大きな戦争に行っていたことを全く知らなかった。
 最初の戦争は昭和十三年、日中戦争で中国に行ったとき、ひいおじいちゃんはまだ二十一才だった。通信兵としてすごく重たい電池や無線機を担いで、通信がとぎれないように三人で交代しながら、休むときも立ったままだった。夜も一時間おきに交代したと知って心も体もこわれそうだと思った。
 敵も味方も、たくさんの人が亡くなり、行く先々で亡くなった人の悪しゅうでいっぱいだったという。自分だったら、生きて帰れるのか不安になっただろう。そして仲間が亡くなると、ひじから先を回収したそうだ。なぜそんなことを?とびっくりしたけれど、亡くなった人のご家族にとどけるためだと知った。戦とうがさらに激しくなると、持ち帰れるのも指一本になり、敵が多すぎて回収ができないこともあったという。
 ある日、ひいおじいちゃんは銃で左肩を撃たれた。焼けた火ばしで強くたたかれたような痛みだったそうだ。弾は貫通して、神経なども傷つけなかったおかげで、なんとか回復できたけれど、どれほど痛かっただろうか。
 マラリアで入院したときには、それまで三ヶ月以上一度もくつをぬぐことがなかったので、足の甲の皮が足のうらと同じくらい固くなってしまっていた。寝るときもくつをぬげない、お風呂にも入れない、まともなごはんも食べられない。病気で十㎏もやせたこともあった。読んでいて何度も悲しくなり、読むのがこわくなった。それでも不思議なことに、ひいおじいちゃん自身は一度も銃を撃つことはなかったことを知って、何だかちょっとだけ安心した。
 戦争でひどいことをした日本人もたくさんいたけれど、ひいおじいちゃんは現地の人に決してらんぼうなことはしなかった。中国軍の命令も、日本軍の命令も聞かなくてはならない現地の人たちを気のどくに思って、その人たちにできるだけ負担がかからないようにした。すると、現地の人がわざわざ家の奥からすずりを出してきてプレゼントしてくれ、ひいおじいちゃんはそのすずりを大切に保管していると書いてあった。
 そこを読んでお母さんは、
「そんな大事なすずりと知らず、ひいおじいちゃんが亡くなった後に人にあげてしまった。もっと早く読んでいたら、ちゃんと取っておいたのに、本当に申しわけない。」
と落ちこんだ。ひいおじいちゃんが古いタイプライターで一文字ずつ丁寧に印字したこの従軍記を、なんで今まで読んでいなかったのかと、私はうらめしい気持ちになった。
 日中戦争からもどって五ヶ月後には、太平洋戦争に召集された。新潟で演習や新兵の教育をした後、松輪島というところに渡った。北海道からもっと北の海にポツンとある小さな島だ。真冬に出発すると、仲間の船はと中で敵に攻撃されて沈没してしまった。不安で眠れず、やっと島に着いても波が荒くて一週間以上も上陸できなかった。
 松輪島は深い霧で野菜も育たず、冬の最低気温はマイナスニ十℃以下、辺り一面の吹雪で兵舎から三m先のトイレに行くのにそうなんしてしまう人もいた。敵の船からたくさん攻撃されたが、必死に島を守った。
 松輪島で終戦をむかえたひいおじいちゃんはそのままシべリアに連れて行かれた。「シベリアよく留」というそうだ。
 ソ連側はすぐ日本に帰国だと言っていたが、玉井俊輔さんという連隊本部の人はどうも納得できず、約一ヶ月交しょうをする中で信らいできるようになったソ連の大尉にたずねた。彼は知らない、とぽつりと言った後、真剣な表情で玉井さんをさすようにジッと見てきた。その時ハッと、帰国ではない、ソ連によく留されると気付いた玉井さんは大急ぎで本部にもどり、防寒着や毛布の用意など完全防びでの出発を全隊員に命じるよう部隊長に要望した。
 まだ九月末、船に乗る海岸まで厚着で延々と歩く四千人の日本兵たちは汗だくで、文句を言う人もいた。でも、玉井さんは台の上で服装違反の人がいないか目を光らせた。
 シべリアによく留されて間もなく冬がやってきた。他の地域から連れてこられた人の多くは夏服のままで、ソ連からの支給も足りず、寒さや栄養失調でたくさんの人が亡くなってしまった。松輪島から来た人たちは完全防びのおかげでそれをまぬがれた。
 玉井さんは戦争のつらさと共に語った。
「私は戦争を知らない子供たちに言いきかせるのであった。『人間同士のふれあいがどんなに大切なものであるか解るだろう』と。」
 ひいおじいちゃんも当時は玉井さんのことを知らなかった。戦争から帰ってきて玉井さんが書いた手記を読み、その尽力のおかげで自分も二年間のシベリア生活を生きぬけ、多くの命がすくわれたことを知った。そして、
「今書いている私の思い出の記録はごく少数の人達にしか読まれないだろう。しかし一人でも多く、このような立派な人がいた事を知ってほしく、また見習ってほしい。」と書き残してくれたおかげで、私も玉井さんのことを知ることができた。
 シべリアは、地面が凍って何をするにも大変な土地だった。何度も日本に帰れるとだまされては収容所が変わり、鉄道の建設、大木のばっ採、道路の補修、がけの岩のばく破、深い穴ほりなど、きつい労働ばかりだった。毎日ノルマをこなさないとならず、働き者グループに入れられたひいおじいちゃんは、自分の作業が終わると他の人の手伝いも一生けん命やった。ひどい環境の中で重労働をさせられても、食事は少しのパンやコーリャンというこく物の汁だけで、誰もがもっと食べたい一心で、なだめるのは三才の子をあやすよりむずかしかったという。
 昭和二十二年十月に、ひいおじいちゃんはやっとの思いで日本に帰り着くことができた。京都の舞鶴港に着いてようやく、もうだまされていないと思えた。約十年、私が生まれてからと同じ年月をずっと、戦争に行き、よく留され、大変な思いをし続けたのだ。
 今回初めて従軍記を読んで、ひいおじいちゃんはよく生きて帰ってこられたと思う。軍曹になっても新兵たちがちゃんとごはんを食べられるようにしたり、夜通し行軍してきた兵たちがねている間に、汗だくになったはだ着や下着を洗濯したり、誰に対しても平等で、働き者で優しくて、でもそれを自まんしたりえらぶったりしない、すごい人だった。
 九十六才まで長生きしたひいおじいちゃんは従軍記の最後にこう書いていた。
「戦争とはバカらしいことである。戦争はぼう大な浪費をし、多数の人々がひさんな目に巻きこまれるだけで、プラスの面は一つも無いのである。」
「私は、解決の道はたがいに論議をつくすことができる環境や組織を作り、包容力と、相ご信らい、自制によりだ協に到達することだと思う。世界中がみんな、戦争のない平和な生活ができるよう、まず自ら心がけ、行動しなければならない。そのような考えや行動が波もんのように自分の周囲から次第に遠く全世界におよぶことを願うものである。」
 今もロシアの攻撃でウクライナの人々が苦しんでいる。戦争のせいで衣食住に困っている人たちがいる。ひいおじいちゃんの思いを受けついで、戦争は絶対に悪だということ、相手を思う気持ち、人と人とのつながりを大事にしていきたい。そして、ひいおじいちゃんが残してくれた従軍記を大切にして、一人でも多くひいおじいちゃんのことを知ってほしい。一日でも早く世界のみんなが平和でいられることを心から祈っている。

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