受賞作品展⽰ 作⽂部⾨
令和6年度(第61回)受賞作品

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全国連合小学校長会会長賞

戦争、原爆と向き合って

広島県 東広島市立高屋西小学校 6年

三井 晴香

 今、私は、冷房がよくきいたバスの中にいる。鳥肌が立っている。寒いからではない。原爆が落とされた時とその後のDVDを見ているからだ。恐ろしさで脈が速くなる。
「三井さん。」
 七月の初め、先生から声をかけられた。先生がおっしゃったことは思ってもみないことだった。
「夏休み中に平和学習バスがあるんだけど、三井さん行ってみない?」
おどろいた。毎年、市で平和学習バスの活動が行われていることは知っているが、まさか自分が参加するとは夢にも思っていなかった。
 私が住んでいる広島県東広島市には、夏休み中、各小中学校の代表が広島市平和公園に行って平和について学ぶ平和学習バスの活動が行われている。私たち生徒が、平和の尊さを再認識し世界の平和を願う。また、悲惨な戦争・被爆体験を風化させることなく、その教訓を後世に正しく伝えていく。そういう狙いだそうだ。その時は、平和学習バスに自分が行くとは思ってもみなかった。
 私は行こうかどうか迷った。不安な気持ちと、いや、行って学んだ方がいいのではないか?という二つの気持ちがぶつかり合う。その場には、当時の写真もあり、つらい気持ちになるのではないか。被爆者の方のお話を聞いている最中、胸が苦しくなるのではないか。そういったことが、頭の中をぐるぐる回った。十分平和について考えているつもりだった。でも、ふと思った。
(被爆者の方たちは、お話している最中つらい過去のことを思い出すだろうな。どうしてつらい思いをしてまで、私たちに語るのかな。私だって、つらいことは思い出したくないのに。)
 しばらく考えた後、答えを導き出した。私たちがその話を次の人たちに伝えてほしいからではないか。そんな思いを、持っていると思った。原爆や戦争と一度、向き合うべきではないか。そういったことに気づき、私は平和学習バスに参加することを決意した。
 そうして、私はバスの中にいる。広島市平和公園に着くまでバスの中で、『被爆者の思い』というDVDを見ることになった。見ている途中、怒りがふつふつとおなかの底からわき上がった。同時に恐ろしさと悲しみも増してきた。鳥肌が立った。
 広島市平和公園に着くと、始めに被爆者の梶矢文昭さんの講話があった。梶矢さんがマイクを持って話し始めた。
「ウゥー。ピカーッ。ものすごい閃光とドゥンン。爆風がおそいかかりました。」
 それまで少しざわざわしていた広間がシーンと静まった。
「そ開先から帰っていた姉は、原爆で死にました。母は、原爆が落ちた時飛び散ったガラスの破片が五十個も六十個も体にささっていました。左目にもガラスがささり 失明しました。血だらけだった。避難するとき川には『水をくれぇー。水をくれぇー。』と叫ぶ集団がいました。川には死んだ人がたくさん流れていました。」
 想像してしまった。梶矢さんのお姉さんとお母さん。「水をくれぇー」と叫びながら川へ入ってい人たち。川にはたくさんの人が流れている。あまりにも残酷だ。梶矢さんは静かに話を続けた。アメリカは、原子爆弾を打つ練習のためにパンプキンと呼ばれる爆弾を、日本各地に打ったこと。原子爆弾を打った際に出た放射線で何年も苦しみ続けている人がいること。たくさんのことを話してくださった。
 最後の方、梶矢さんは言った。
「今の核兵器は、あの時と比べ物にならないほど、発達している。今の核兵器が打た れたら、大げさだと思われるかもしれないが私たち被爆者は、人類が終わると思っています。」
 ジンルイガオワル。片言のように、頭の中でぐるぐると回っていた。梶矢さんは、
「これで終わりにせないけん。長崎と広島で終わりにせないけん。」
と何度も何度もおっしゃっていた。この時、私は改めて分かった。三度目の核兵器が使われると人類が終わると。
 昼食休憩の後、碑巡りと広島平和記念資料館見学が始まった。世界遺産でもある、原爆ドームを見に行った。壁が焼け崩れたため、中はむき出しになっており、円盤鉄骨が特徴的だった。原爆ドームを見て、悲惨な歴史を実際に感じることができた。
 原爆の子の像の裏にある折り鶴ポストへ小学校のみんなで折った千羽鶴を飾った。千羽鶴はずっしりと重く、その重さにみんなの平和への祈りが表れているような気がした。
 外の碑巡りが終わり、広島平和記念資料館を見学した。資料館には、たくさんの遺品があった。被爆したシャツはちぎれていて、茶色くにごっていた。弁当箱は金属製であっても変形していた。ガラスびんもぼこぼこといろんなところがへこんでいたり、かわらもざらざらしたりしていた。資料館にある遺品を預けた人にはそれぞれの思いがあると思う。
 また、たくさんの絵や写真があった。最初は、何か真っ赤なものがあると思った。それは、火の海を背景にし、服も溶け、逃げている三人の家族の絵だった。放射線によるえいきょうで、かみの毛が技けた姉弟の写真や、がんや白血病になった人々の写真もたくさんあった。実際の写真や再現された絵で恐ろしさが何度も何度も伝わってきた。
 地獄。一つの言葉が思いうかんでくる。梶矢さんがおっしゃっていたことを思い出した。
「作家となった今西祐行は、その時の様子を『わたしたちは、地獄の真ん中に立っていました。』と書いています。」
 地獄だ。絵や写真を見ている私。実際に体験したことのない私がそう思う。被爆者の方たちはどれだけ苦しんだことだろう。どれほどつらかっただろうか。原子爆弾を落としたことによって、どれだけ大きな体の傷と心の傷をどれだけ多くの人が負ったのだろう。怒りと悲しみがおそいかかり、二度と戦争をしてはいけないと本当に実感する。
 資料館見学が終わり、ふり返りの会が、始まった。今日、一緒についてきてくださり、たくさんのことを教えてくださった東広島市の高等学校のみなさんが、広島市に原爆が投下された時に東広島市民が、見たり、感じたりしたことを教えてくださった。きのこ雲が見えたり、ピカーッとした光が見えたりした人もいたそうだ。また、飛行機の姿を発見したり、地ひびきやピリピリとしたしん動を感じたりした人もいたそうだ。広島市から何十キロもはなれた東広島市からでも、原爆による光やしん動を感じた人たちもいる。このことを初めて知って、たった一発の原子爆弾がとても恐ろしいものだとはっきりと分かった。
 帰るバスの中で、私は考えた。今日、戦争と原子爆弾の恐ろしさが分かった。しかし、梶矢さんは今の核兵器はとてつもない破かい力があるとおっしゃっていた。もしも今の核兵器が落とされてしまうと、もっと、あの時よりも被害が大きくなるだろう。それを防ぐために。二度と原子爆弾が落とされないようにするためには。悲惨な出来事であったとしても、つらかったとしても、過去にあった悲惨な過ちを次の世代に伝えるべきではないだろうか。そう思った。
 私も、今日の体験を生かしたい。人々に戦争と核兵器って恐ろしいんだよ、と伝えていきたい。そして笑顔が絶えない平和な世界にしたい。平和学習バスに参加してよかったと思えた。
 皆さんも、戦争の恐ろしさを後世に伝えてみてください。そして、みんなで平和な世界を少しずつ築けたらいいと思います。

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