受賞作品展⽰ 作⽂部⾨
令和6年度(第56回)受賞作品
全国都道府県教育長協議会会長賞
「八月六日」に産まれて
福井県 福井大学教育学部附属義務教育学校 5年
中宮 遥香
私のたん生日は、「八月六日」です。夏休み中なので、その日は母の実家のある小浜日泊まっていることがよくあります。そこには祖父母が住んでいます。
今年も私は、小浜でたん生日をむかえました。
八月六日の朝、私は、リビングで電子ピアノをひいていました。この前から練習している「君をのせて」という曲で、私はとても気に入っていて、早くうまくなりたくて毎日がんばって練習していました。
すると、その時祖母が
「はるちゃん、ちょっと。このテレビ番組見てごらん。」
と、私をよんだので、ピアノの練習を読けたかったけれど、テレビの前にすわりました。
テレビを見ると、「広島」の「平和記念式典」が中けいされていました。
式典の会場には、世界各国から代表者がたくさん参列していて、総理大臣や広島市長のメッセージや「平和せん言」がありました。
八時十五分、「モクトウ!」というアナウンスと同時に、「平和の鐘」がなって、会場は静まりかえりました。今から七十九年前、ここ広島に「原ばく」が落とされた時こくです。私は、いつの問にか、自分もその会場にいるようなきんちょうを感じていました。
「モクトウ」が終わると、静まりかえった会場に、私と同じくらいの、六年生の女の子と男の子が登場してきました。
私は、この大きな「平和記念式典」を、急に身近に感じ始めました。そして、二人の「平和のちかい」を聞くと、「原ばく」や「戦争」が、自分とはあまり関係のないこと、ずっと昔のでき事で、自分とはかかわりのないことだとは思えなくなってきました。
私は、最近、母にすすめられて、『ぼくはうそをついた』という本を読みました。今、テレビの中の「平和式典」に登場した、現実の女の子と男の子が本に出ていた物語の主人公、「リョウタ」と「レイ」に見えてきました。
この物語に出てくる「リョウタ」と「レイ」という少年と少女は、ひいじいちゃんやひいばあちゃんが、原ばくの「ヒガイシャ」でした。原ばくで心を深くきずつけられ、その苦しさをずっと心のおくにだいて生きてきた人たちでした。二人とも原ばくで息子をなくしていました。
原ばくから七十九年もたった現代のリョウタとレイは、原ばくで深くきずついた、ひいじいちゃんとひいばあちゃんの心のいたみを自分たちも感じなければ、と思い始めます。そのために、原ばくのことをしっかり知らなければならない、と行動を始めました。
原ばくのことをくわしく調べ、苦しんだ人たちの気持ちを自分も深くあっじわって、今の時代のみんなに、世界の人たちにうったえていこうと決意する物語でした。
私は、今、現実の式典で、「平和のちかい」を言った六年生の男の子と女の子も、「リョウタ」や「レイ」と同じ気持ちでそこに立っていたんじゃないかと思いました。
朝ご飯がすんでから、祖母が
「はるちゃんに見せたいものがあるんだけど二階についてくる?」
と、私をさそいました。
私は、祖母について、二階のおくの部屋に入りました。
物置のように、ごちゃごちゃした部屋のすみに、大きな絵がたくさん立てかけてありました。祖母がかいた絵でした。祖母は、その中から一枚の絵を引き出してきて、私の前に置きました。私の背の高さくらいの大きな絵です。
その絵には、赤ちゃんを背中におんぶし、男の子をひざにのせて、すわりこんでいる若い女の子が描いてありました。
すわりこんでいる女の人が見上げた空には、無数の飛行機が飛んでいて、飛行機からは、黒い物体が次々と落ちていました。背景は、真っ赤にそまっています。
祖母の説明によると、この絵は、福井市の大空しゅうの様子を描いた絵だそうです。そして、その女の人がおんぶしている赤ちゃんが、その時一才二か月だった祖母だそうです。そして、ひざの上にだいている男の子は、祖母の兄で、その時小学校二年生でした。だから、その絵の中の女の人は私のそう祖母です。
福井市の大空しゅうは、広島に原ばくが落とされる二十日ほど前だったらしいです。
その時福井の空には「B・二十九」というアメリカの戦とう機が、空いっぱいに飛んできて、ばくだんを雨のようにばらまいて落としたそうです。それも、くり返しくり返し飛んできて、ばくだんでこうげきしたそうです。
インターネットで週べたことですが、福井の大空しゅうでは、わずか一時間ほどの間で、福井市の中心部はすっかり焼け野原となり、一六〇〇人もの人が焼け死んだそうです。
もう逃げられないと思ったそう祖母は、地面にすわりこみ、それでも子どもだけはばくだんから守りたい、と、頭で背中の赤ちゃんをおおい、手でひざの男の子をおおって、ばくだんから守ろうとしたのだそうです。
戦とう機からバクダンが「ヒューッ」と音をたてて落ちてくるたびに、ひざにだかれていた小学校二年生の男の子が、
「ナムアミダブツ、ナムアミダブツ!」
と手をすり合わせておがんだそうです。
そんな、小学校二年生のような、おさない子どもを、きょうふでいっぱいにし、そんなことをさけばせるなんて!戦争って、なんてざんこくなものか、と、祖母は説明をしながら、おこったように言っていました。
当時一才二が月だった祖母には、その時のことは全く記おくになかったけれど、いやになるほどいいく度も聞かされて、頭に焼きついているのだそうです。
私は、祖母から福井の空しゅうの絵を見せてもらい、話を聞いて、戦争の時は、原ばくだけでなく、日本の各地で大ぜいの人が同じように死んでいったことを初めてリアルに知りました。私が今住んでいる福井市でそんなおそろしいことが七十九年前におきていることを知って、とてもショックで、おどろきました。インターネットによると、福井大空しゅうでは、八十一分間の集中的なばくげきで約九千五百発、八百六十五トンの焼いだんが落とされたとありました
でも広島の原ばくは、一発で死者が十四万人をこえ、しかもその後、かくばくだんの放しゃのうで、今だに亡くなくなっている人がいるそうです。
私のたん生日は、「八月六日」、本当に特別な日でした。
この特別な日に産まれた私は、戦争や平和について、記念式典に出ていた女の子と男の子のように、もっと深く学んでいかないといけないと思いました。
世界では、今も戦争を次けている地いきがあり、毎日のように大ぜいの人達がぎせいになっています。私は、どうして人間は、戦争をするんだろう、やめられないんだろうと思います。
私は、かこの戦争のことを学び、今の現実の世界の様子をしっかり自分なりに見て、平和への願いをこめて、しっかり伝えていかなければならないと思いました。